九月も後半に入りましたが、土佐では日中はまだまだ残暑が続いております。
今朝は宮城からバスケットの試合で高知へ来られたという方が参拝にいらっしゃいました。
お母様の旧姓が「山内」さまとおっしゃるそうで、縁を感じられお参りいただいたそうです。
『山内家に伝わった系図や家譜によると、土佐山内家は鎌倉の山内荘(やまうのうちのしょう)から でた山内首藤氏の系譜につながるといいます。
山内首藤氏は藤原鎌足の末孫の末裔という説、また関東の豪族藤原秀郷の末裔という説と両説あるそうですが、いずれにせよその子孫が主馬首(しゅめのかみ)に任ぜられ、「主馬首の藤原氏」ということで首藤氏と名乗り、のちに相模国鎌倉郡(神奈川県鎌倉市)の山内荘に土着したことから「山内首藤氏(やまのうちすどうし)と称するようになったと言われています。
鎌倉時代には伊勢や伊賀の守護職をつとめ、、備後・信濃・摂津などに地頭職を持ち、それに伴い一族の所在も広がったようです。そして室町時代には山名・大内・尼子・毛利といった中国地方の諸氏に使えました。このうち土佐山内家は、室町時代に丹羽国(兵庫県・京都府)に移り、さらに久豊(一豊の祖父)に尾張に移って尾張山内家の祖になったといわれています。』 ただし残念ながら、現在ではその詳細は不明とのことです。大名家の多くの系図がそうであったように、意図的に系図を操作した可能性が少なからずあるので、真偽を確認することが難しいのだそうです。
土佐山内家の系譜がはっきりと確認できるのは一豊の父盛豊からだそうです。
『盛豊は尾張黒田城(愛知県木曽川町)を居城として、岩倉城(愛知県岩倉市)の織田伊勢守信安に仕えましたが、一豊15歳の時、岩倉城が織田信長の襲撃を受けて落城し、父盛豊は戦死したといわれています。一豊は母と数人の家臣とともに流浪した後、織田信長、豊臣秀吉の両政権下で出世し関ヶ原合戦では徳川家康方に与して、戦後、土佐一国を宛がわれました。
以降土佐山内家は幕末にいたるまで江戸時代を通じて土佐藩主をつとめ、明治維新後も侯爵として華族会でも確かな位置をしめました。』
参照
『山内一豊と見性院』㈶土佐山内家宝物資料館 2005
『歴史・文化ガイド 山内一豊と千代』日本放送出版協会 2005
このように、山内一族は鎌倉時代以降全国各地に散在したようですので、遠く祖先を辿っていきますと、土佐山内家とのご縁もつながるのかもしれません。
おりしも季節はお彼岸。たとえ真偽の確認はできなくても、そういった遠祖先のご縁に手を合わせるひと時は、人の気持ちを豊かに彩る時間かもしれません。